特定非営利活動法人 パルシック(PARCIC)

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待ちわびた停戦

  • コラム

停戦を待ちわびていた5月21日の午前2時、通りから聞こえる喜びの声で、これが現実なのだと実感しました。恐怖の11日間が終わったことを知り、ようやくベッドに入り、休息と心の平安を得ることができました。それでも、2014年の悪夢 ―停戦が発表されたその日に合意が破られ、多くのパレスチナ人が亡くなったこと― が頭をよぎり、完全には安心できませんでした。

翌朝目覚めると、通りから車の音が聞こえてきて、より現実味が増しました。窓から見ると、車にはカラフルな新しい服を着た子どもたちが乗っていました。ようやくラマダン明けのお祝いする時がきたようです。私も夕方、子どもたちと急いで、両親の家に行きました。困難な日々を超えて、家族そろってお祝いをしました。

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ささやかなラマダン明けのお祝い(イード)

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イードの食べ物

しかし、避難を余儀なくさせられた人びとには、異なる現実がありました。彼らは、生活の厳しい避難所から戻り、家や店の被害状況を確認していました。枕や洋服の一部、本など、とにかく家の中に残っているものを探している様子に、誰もが心を痛めました。家も財産もすべて失うというのは、簡単なことではありません。

イスラエルとの戦闘で、何万もの人びとが家や財産を残して避難しました。107,000 人以上のパレスチナ人が国内避難民となり、そのうち 35,000 人は親戚のもとへ、71,000 人はUNRWA(国連パレスチナ難民救済事業機関)が支援する学校に避難しました。しかし、学校での避難生活は過酷で、精神的トラウマや新型コロナウィルス感染拡大などの懸念もありました。教室の中には、毛布やマットレスはありません。飲料水や食べ物もなく、電力供給が短い時間しかないのはもとより、清潔なトイレもありませんでした。

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空爆で被害を受けた街の様子

私たちが支援する女性の1人、 ラファ県アルショカ村のリーム・アブ・スルタンさん (41歳) は、近所の家がミサイルの標的にされました。窓が割れ、火薬や煙で充満した家を逃れ、ラファ市内にある義理の兄弟の家に行きました。しかし、その家はとても狭く、逃げ込んだ家族すべてを受け入れる余裕はありませんでした。2日後、リームさんは学校に移動することにしました。7世帯以上の家族と同じ教室に宿泊し、停戦当日の朝までそこに留まりました。早朝、家に帰ると、家の中はコンクリートの破片や火薬の粉でいっぱいで、まずは家の片付けをしなければなりませんでした。自治体から供給される水も不足していて、毎日の生活用水にも、購入した飲料水を使いました。

リームさんは、子どもたちがまだ怖がるので、みんなで同じ部屋に寝ていると付け加えました。「ちょっとした音でも目を覚ましてしまい、泣いたり、『戦争が戻ってきた……戦争が戻ってきた』と、怯えて叫んだりします。」 彼女はまた、大学入学前の最終試験が近い息子のことを心配しているとも話していました。
「戦闘中は、息子をガザ中部にいる祖父母のところに送りました。息子をこんなひどい状況に置いておくことはできません。将来がかかっているのですから、勉強しなければなりません。勤勉な息子は、暴力と恐怖に満ちたこの恐ろしい人生より、もっと価値のある人生を送るべきです。」

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空爆で崩れた建物を背に歩くガザの人びと

私たちパレスチナ人は、数年おきに起きるこうした状況に慣れています。それでも、その度に誰もが苦しみます。そして、自分たち自身に問いかけるのです。「また戦争前の生活に戻ることができるだろうか?」と。そうやって何度も、元の生活を取り戻すために働いてきました。自分たち自身のために、そして大切な人たちのために。私たちは、繰り返される暴力に慣れるよりも、もっと良い生活をしたいと思っています。そのためには、いつでも破られる可能性のある停戦だけではなく、政治的解決が不可欠なのです。

(ガザ事務所 タグリード)

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