パレスチナ「真っ暗な記憶」
- コラム
パレスチナ自治区ガザでは、数年おきに起きるイスラエル軍による攻撃で人びとは家族を失い、家を破壊され、戦禍にあった子どもたちはトラウマを抱えています。ガザに暮らすパレスチナ人女性がつづった、2008年に家族を失った時の経験とその悲しみ、繰り返される戦争の中に生きるガザの子どもたちの状況を伝える文章を掲載いたします。
彼は、天使のようにそこに横たわっていた。身体がガソリンで覆われていたにもかかわらず、バラの香りにつつまれているかのようだった。左の眉の上に深い傷があるだけで、全く血は流れていなかった。傷口も怪我も何もなく身体はきれいなままで、彼が死んでしまったことは信じ難いことだった。私の母や彼の妻、彼の小さな子どもたち、私の姉妹やいとこ、その他多くの人たちが彼をとり囲み、全員が泣き叫んでいた。私の母は彼を抱きしめ、身体をゆすった。彼の妻は泣きながら彼の名前を呼んでいた。私の姉妹は彼に触れて、彼の顔にキスをした。4歳の彼の息子アフマドは、怯えて泣いていた。しかし、私はスフィンクスのようにそこに立ちつくし身動きできなかった。私のいとこの一人が、私の体を揺すって「近くに寄って彼を抱きしめて、キスをして。さよならを言わないと。もう身体が運ばれてしまうから。」と言って私を引っ張った。私は、周囲がぐるぐる回っているように感じ、急に目の前が真っ暗になった。そして深い静寂に落ちた。気を失っていた。目を開けると、泣いている人々の姿が目の前に戻ってきた。いとこが私の顔に水をかけて「目を覚まして」と私の名前を呼んでいた。彼女は、私が立ち上がって彼のそばへ近づけるよう支えてくれた。その罪のない顔を見た後に、近づいて彼に触れようとしたとき、静寂と暗闇に包まれ、私は再び気を失った。
意識が戻ると、彼はもうそこにいなかった。彼の体は、墓地に運ばれた後だった。私の近くで、母が泣き、彼の妻が泣き叫びながら4人の子どもを抱きしめていた。私の姉妹の一人が、血だらけの手を上げて「アッラー·アクバル(偉大なる神よ)」と言った。彼女は私のところに来て、両手で私の顔をはさんで「ラビーは殉教者として天国に行くのだから、悲しまなくていいのよ。」と叫んだ。彼女の手から伝わった彼の血の匂いから、何が起きたのかをやっと理解することができた。
これは、私の兄の葬式のときのこと。
彼は殉教者だった。仕事中にイスラエル軍の航空機によって殺された。それは、ガザでの戦争が始まった日であり、そしてつまり、ガザに暮らすパレスチナの人々の大量殺人の始まりだった。私の兄はその最初の犠牲者の一人で、その後27日間続いた残酷な戦争で1,500人近くの人びとが亡くなった。何千もの子どもたちが、私の甥や姪のように、両親またはどちらかの親を失った。たとえ親を失わなかったとしても、子どもたちは兄弟や親しい親戚のだれかを亡くしており、ガザ地区に暮らす全ての子どもたちは戦争の恐怖に苦しみ、航空機や爆撃の音が子どもたちのトラウマを生み出している。
デイル·アル・バラハはガザの中心部にある小さな町で、ガザの他の地域と同じように、戦争の間、殉教者や負傷者、爆撃された家々で埋め尽くされていて、6歳の子どもでさえもそういった戦争の記憶がこみあげてくる場所だ。皮肉なことに、デイル·アル・バラハの避難民キャンプは、私たちが「アッラーからの祝福」としてとらえてきた海の近くにあったけれど、戦争中の海は地獄への扉のようなものだった。イスラエル軍の船が海岸の家々を爆撃し続け、昼夜を問わず人が外を歩こうものなら撃ち殺した。
戦争が終わるとイスラエル軍はガザから撤退したけれど、ガザの子どもたちには深い傷が残り、国際NGOや地元のNGOによるこの3年間の取り組みは水泡に帰し、多くの子どもたちは戦争の影響に苦しめられ続けている。
最後に、公平性の観点から、ガザの子どもたちが世界の他の地域の子どもたちのように普通の生活を送れずにいる背景には、パレスチナ人政党による対立もその一因を生み出しているということを申し添えておく。
2012年1月